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#543
坐禅会有志
ゲスト

5月の定例坐禅会
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 5月11日(日)午前6時30分から、月例坐禅会が開かれ、和尚さんと坐禅会メンバー12名、計13名で坐りました。新到さん(初めて坐禅会に参加する方)1名いらっしゃいました。
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 暑くなく、寒くなく、坐禅をするには最適の気候でした。
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 「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」
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 事物はすべて本来空(くう)であるから、執着すべきものは何一つないという意味になります。
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 この言句は中国禅宗六祖(ろくそ)の大鑑慧能禅師(だいかんえのうぜんし)(638~713)のものと言われており、『六祖壇経』に次のような偈(漢詩)が載せられています。
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 菩提本樹無(ぼだいもとじゅな)し、明鏡亦台(めいきょうまただい)に非(あら)ず。本来無一物、何(いず)れの処(ところ)にか塵埃(じんあい)を惹(ひ)かん。
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 ここでの本来無一物とは、「私達人間の身心の生まれたままの本性は元々ピュアなもので菩提だの明鏡だのといった言葉で解説したり、思慮で推し量ろうとするまでもない」といった意味です。慧能という人物はこの純粋さをずっと保ち続けていた稀有(けう)の人だったので六祖と成り得たのでしょう。
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 「本来」は「もともと」や「本質的に」という意味、「無一物」は「何一つない」という意味です。禅宗では、人間は生まれながらにして何一つ持っておらず、全ては本来「空(くう)」の状態であると考えられています。
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 物欲や地位、名誉など、人間が執着する対象を否定するものではありません。執着が苦悩を生むことを指摘し、執着を手放すことによって心の平静を得られると説きます。
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 私たちは、自我をつくり、相対分別をしつづけ、あらゆるものを所有し、所有したものに執著しつづけて生きています。如何に多くの財産やものを所有したとしても、死滅することにより、最終的に私のものは何一つとしてないことに目覚めなくてはなりません。
 また、自我にまみれた私からも私を開放しなくてはなりません。
 本来、仏としての自己に出会うこと。それが私たちが執着を手放す方法です。
 坐禅にて本来の自己に気付く努力をしてみませんか。
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 来月の月例坐禅会は、6月8日(日)午前6時30分から開催予定です。
 是非、ご参加ください。
 詳しくはサイトのお知らせ、および催事・行事の坐禅会の項目をご覧ください。
                                 K.N 記

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